性格診断じみたアンケートの価値

就職活動を始めるにあたって、また就職活動を継続する中、性格診断時見たアンケートをやらされた(と言っても過言ではないだろう)。
しかし、こういったものに回答していると、いつもこれにどれだけの価値があるのかと疑問に思ってしまう。
というのも、それらのアンケートに突っ込みどころが多すぎて、回答している側から見た時にあまりにも信頼性が低いように見えてしまうからだ。

たとえば、私が先ほど受けたこの手のアンケートには、自分がAとBどちらに近いか応えよといった形式の質問があった。
そこから適当に一つ取り上げると、A:引きさがらない B:人に譲るといったものがある。
たしかに、政治家の中には常に引き下がらない人間がいるようにも見受けられるが、そんなのは普通の社会では通用しないだろう。
その場その場の状況に応じて、損得や感情、理に適っているかなどあらゆることを判断材料として、人間は判断を下すはずである。
この問題の場合は、最低でも状況を簡単に指定しない限り、いくらでも曲解されてしまう。
たとえば、会議における提案や検討、デパートのセール品売り場での取り合い、電車やバスでの席の譲り合い、ぱっと挙げたこの程度の状況設定だけでも判断が違ってくるのは当たり前だといえよう。
では、この質問に答えることから何が読み取れるのか。答えは、何も読みとれない、だ。強いて挙げるならば、このアンケートに対する答えを見た人が、相手にどのように質問を受け取ってもらいたかったか、だろうか。

と、突っ込みどころが満載だが、実はこれでも優しい方である。

A:ときどきカッとすることがある B:めったに腹を立てることはない
などは、一見普通だが実はとても酷い。
なぜならば、「めったに腹を立てることはないが、ときどきカッとすることがある」という人がいないわけがないからである。
というよりも、「めったに腹を立てることがない」人とは、「ときどきカッとすることがある」人のことだろうし、ときどきしかカッとならない人はめったに腹を立てることがない人といえるだろう。
日本語の意味も深く考えずに、安易に主観的な言葉を付け足すせいで、こういった残念な質問が生まれてしまうように見受けられる。
もしもこれが、
A:頻繁に腹を立てることがある B:めったに腹を立てることはない
A:ときどきカッとすることがある B:絶対に腹を立てることはない
などという質問であればまだ理解ができるが、なんにせよこの質問に回答する人が自分でどう思っているかに関係なく、元の形式ではその信頼性はゼロに等しいだろう。
内側でこの質問に対する答えをどう判断しているのかは非常に気になるところであるが、私からすればこの質問は「どちらのニュアンスが好きか」といったどうでもよい好みを見る程度にしか使えない様に思えてならない。

もっと突っ込みどころのあるおもしろい質問もいくらでもあるのだが、逆に言うとそれらがあまりに多すぎてここで紹介するのは無理がある。
というわけで、是非ともこういったアンケートに回答することになった時には、質問に対する突っ込みを楽しんでもらいたい。

Androidアプリ「和歌ったー (Wakatter)」を公開しました

12月17日に新作のAndroidアプリケーション「和歌ったー (Wakatter)」を公開しました。

和歌ったーは、和歌や俳句、川柳の投稿専用に開発した、Twitterクライアントです。
私のTwitterアカウントで時々、#wakatterというタグをつけて呟いていましたが、あれは全部和歌ったーのデバッグ時(および気が向いた時)にこのTwtterクライアントから呟かれたものです。

スクリーンショット

このTwitterクライアントの大きな特徴は、ツイートしようとしている内容が、定型詩文(この場合は和歌の五七五七七や、俳句の五七五)に沿っているかを判断し、正しい場合にのみ投稿できるようになるという点です。
つまり、(字余りなどにも対応してはいますが)五七五か五七五七七の形式になっていない場合は、このTwitterクライアントはツイートを拒否します。
では、なぜこんな癖のあるTwitterクライアントを開発したのか、という話について。

  • [開発の経緯]
    Twitterはひらがなやカタカナ、漢字などの日本語の文字も、アルファベットと同様に140文字の投稿が可能である。しかし、英語などの言語と比べて一文字あたりの情報量が多い日本語では、140文字では長すぎ、Twitter本来の短文投稿サービスという趣旨から外れているのではないだろうか。
    自分の考えを短文にまとめることは、とても良い頭脳のトレーニングである。そこに、短い文章で自分の意見を表現するというTwitter本来の使い方に立ち戻る意味がある。
    この想いから、和歌や俳句、川柳などの音節によって文の長さを制限する日本古来の文化を取り入れたTwitterクライアント「Wakatter」が生まれたのである。
    ※Android Market掲載の文章を引用

また、音節数をしっかり確認するために形態素解析エンジンというものを使っています。

  • [ちょっと詳しい話]
    投稿しようとしている文章の内容が正しい形式であるかどうかの確認には、形態素解析エンジンMeCabを使用しています。
    Androidアプリ「和歌ったー」からユーザーが文章を投稿しようとすると、和歌ったーは専用にチューニングされた形態素解析エンジンMeCabを走らせているウェブサーバーにそのデータを送信し、サーバーが内容を解析して必要な情報を返します。
    アプリは返された情報から定型詩文の形式として正しいか確認し、ツイートの可否を制御します。
    ※音節数の判定には「多摩大学 出原ゼミ」の開発したMeCab-httpインターフェースを利用しています。

アプリの使い方は簡単で、
1.Twitterアカウントの認証を行う
2.投稿したい文章を入力する
3.投稿ボタンを押す (←ここでサーバーに情報が送られ、判定結果が返される)
4.結果を確認して、ツイートする(形式が正しい場合のみ可能)か、しないかを選択する
といった手順です。
Twitterのアカウント認証はメニューキーで表示されるオプションメニューから行えます。
また、初回起動時に表示されるより詳細なヘルプも、メニューキーから表示可能です。

判定結果の例

もし興味を持って頂けましたら、以下のURLからAndroid Marketのダウンロードページに飛べますので、よろしくお願いします。

 

Android Marketダウンロードページ

https://market.android.com/details?id=lab.cyberfox.wakatter

Twitterが落ちてる

ふと起きたら、朝の5時。
電気はつけっぱなし。
やべーやべーと言いながら、今日提出のレポートの原稿を作成。(合間にwikipediaでおもしろそうな記事探して現実逃避とかもしていたが)
が、原稿ができてから手書きもしないといけない。
手書きが面倒なのでTwitterでも見るかと思い立つも、Twitterが落ちてる。
この自分でも良く分からないテンションのぶつけ先が無くなったので、ブログにでも書くか ←今ここ

とまぁ、こんな感じの朝でした。
大学は昼からだけど、今からレポート書いて仮眠取ったら寝過して遅刻するよな・・・
起きてないとまずいよなぁ。

追記
そしてTwitterが落ちているせいで、Twitterに投稿情報を投げるプラグインがエラーを吐くという・・・

現代メディア論

 今期、木曜日の講義は現代メディア論しか取っていない。

 今日はこの現代メディア論の講義に、NHKの原神 琢氏が講義に来て下さった。
 この講義の終了後、現代メディア論の講師である木村 知義先生と、私のゼミの先輩も交えて、お時間を頂いてお話しする機会を得られた。
 色々と有意義なお話しを聞けたので、ここに書き留めておく。

 と前置きしたものの、全てを取り上げて長々と書くわけにもいかないので、特に重要な課題であると考えている一点と、あとは概要を。

※ちなみに、今回の話の基軸はニュース番組についてであり、バラエティー番組とかは除く

 現代のメディアが直面している課題の一つとして、ユーザー(利用者)の減少があると考えられる。他にも重要な話はいくつもあったのだが、今回は無自覚だったこの問題の根幹を、しっかりと自覚する機会になったので、これをメインに書き残す。
 結論から言うと、テレビのニュース番組の時間帯と、ユーザーがニュースを見たいと思う時間帯がずれてきているのである。とても簡単で単純なことなので、どこかで誰かが明文化してるとは思うのだが、あえて書く。ネットの普及や信用の低下などもたしかにメディアの危機の要因だろうが、やはりユーザーのニーズとマッチしていないことが一番大きいのではないかと私は考える。
 木村先生の言葉を借りれば、「テレビは暴力的」であり、ニュースを見たい視聴者をその時間テレビの前に拘束するのである。
 たとえば、私が朝の一限目から大学に行く時は、6時半に起きて7時半には家を出る。講義だけならば夕方には帰ってくるが、ゼミがある日は帰宅時刻は夜の11時頃になってしまう。この日、私にテレビの前でニュースを見る時間は無い。マーケティングのセグメンテーションは、一昔前と違って極めて複雑になってきている(そうだ)。昔は男女や年齢で分けられていたものが、生活リズムやパターンの多様化が進み、現代の世の中ではより多くの複雑なセグメントが存在する。この時代に至って、マスコミだけがそのセグメントを今までどおりのまま突き進むわけにはいかなくなっているのではないか。
 ネットの普及した現代では、いつでもネットで情報を手に入れられる、興味を持ったニュースはより詳しく調べられることが当たり前になっている。しかし、ただ与えられるだけのコンテンツであるテレビの報道番組では、これらを満たすことはできず、ユーザーはそういったニーズを満たすためにテレビの前から離れるのである。
 勿論、テレビの報道番組が別の付加価値を目指すべきなのか、こういったニーズに応えることを目指すべきなのか、私が一概に決めつけることはできない。しかしその将来的な方針はどうあれ、マスコミがテレビの報道番組を存続させようと考えるならば、この単純だが重要な要素をしっかり見据える必要があるのではないだろうか。

 また、この話と関連して「ニュースだけを流すチャンネル」をなぜ作らないのかという話もあった。これに関しては、昔、日本のマスコミの間でもそういう案が出ていたそうだ。しかし、結局実現しなかった。前述した現代人の多様なニーズに合わせるには、こういったアプローチも必要になるのではないだろうか。スポンサーの問題なども考えると、もしこれが実現できるとしたらNHKだけだと私は思う。デジタル化によってチャンネル数の制限も緩くなったことだし、NHKには本当の意味で社会の役に立つものを追い求めて欲しいと思う。それが、国民の税金に支えられているNHKの義務ではないだろうか。

 他には、マスコミ間での相互的な批判がなぜあまり行われないのか、そういった”マスコミの権力”を監視する取り組みは行わないのか、といった質問についても興味深い話を聞けたりした。
 これに関しては、昔から同じような話がマスコミの中で出ているにも拘らず、いまだに実現してはいない、ということのようだ。その一因として、マスコミの相互批判が行われた際に必ずしも少数派が間違っているとは限らない、といったものが挙がった。
 これは本当にその通りだと思うし、マスコミ間での積極的な批判を行わないことによって、物事の多面性が損なわれないという部分もあるだろう。しかし、現代のネット(国民)とマスコミの対立は、実際にはこの構図になってしまっているように思える。最近ではフジテレビによるネットの批判(ここで具体的にどれとは言わない)があったが、他のマスコミがそれに対してアプローチを起こさなければマスコミという権力と、ネットという名の一部の国民の対立となってしまうだろう。この構図は先ほどのマスコミ間での相互的な批判を行った場合に危惧されるような状況とひどく似通ってはいないだろうか。マスコミが相互に監視を行わなければ、マスコミの持つ力は簡単に物事の多面性を喪失させてしまう危険をはらんでいると私は考える。

 と、ここまで書いてもまだネタは尽きないのだが、あまり推古せずに文章を綴ったこともあってやや読みづらい気がしてきたので、このあたりでやめておくことにする。
 Twitterも日々のちょっとした気づきやどうでもよいことをつぶやくのには良いのだが、やはりこういった長文を書きとめる場としてのブログは重要だなと、こういう機会がある度に思える。