今期、木曜日の講義は現代メディア論しか取っていない。
今日はこの現代メディア論の講義に、NHKの原神 琢氏が講義に来て下さった。
この講義の終了後、現代メディア論の講師である木村 知義先生と、私のゼミの先輩も交えて、お時間を頂いてお話しする機会を得られた。
色々と有意義なお話しを聞けたので、ここに書き留めておく。
と前置きしたものの、全てを取り上げて長々と書くわけにもいかないので、特に重要な課題であると考えている一点と、あとは概要を。
※ちなみに、今回の話の基軸はニュース番組についてであり、バラエティー番組とかは除く
現代のメディアが直面している課題の一つとして、ユーザー(利用者)の減少があると考えられる。他にも重要な話はいくつもあったのだが、今回は無自覚だったこの問題の根幹を、しっかりと自覚する機会になったので、これをメインに書き残す。
結論から言うと、テレビのニュース番組の時間帯と、ユーザーがニュースを見たいと思う時間帯がずれてきているのである。とても簡単で単純なことなので、どこかで誰かが明文化してるとは思うのだが、あえて書く。ネットの普及や信用の低下などもたしかにメディアの危機の要因だろうが、やはりユーザーのニーズとマッチしていないことが一番大きいのではないかと私は考える。
木村先生の言葉を借りれば、「テレビは暴力的」であり、ニュースを見たい視聴者をその時間テレビの前に拘束するのである。
たとえば、私が朝の一限目から大学に行く時は、6時半に起きて7時半には家を出る。講義だけならば夕方には帰ってくるが、ゼミがある日は帰宅時刻は夜の11時頃になってしまう。この日、私にテレビの前でニュースを見る時間は無い。マーケティングのセグメンテーションは、一昔前と違って極めて複雑になってきている(そうだ)。昔は男女や年齢で分けられていたものが、生活リズムやパターンの多様化が進み、現代の世の中ではより多くの複雑なセグメントが存在する。この時代に至って、マスコミだけがそのセグメントを今までどおりのまま突き進むわけにはいかなくなっているのではないか。
ネットの普及した現代では、いつでもネットで情報を手に入れられる、興味を持ったニュースはより詳しく調べられることが当たり前になっている。しかし、ただ与えられるだけのコンテンツであるテレビの報道番組では、これらを満たすことはできず、ユーザーはそういったニーズを満たすためにテレビの前から離れるのである。
勿論、テレビの報道番組が別の付加価値を目指すべきなのか、こういったニーズに応えることを目指すべきなのか、私が一概に決めつけることはできない。しかしその将来的な方針はどうあれ、マスコミがテレビの報道番組を存続させようと考えるならば、この単純だが重要な要素をしっかり見据える必要があるのではないだろうか。
また、この話と関連して「ニュースだけを流すチャンネル」をなぜ作らないのかという話もあった。これに関しては、昔、日本のマスコミの間でもそういう案が出ていたそうだ。しかし、結局実現しなかった。前述した現代人の多様なニーズに合わせるには、こういったアプローチも必要になるのではないだろうか。スポンサーの問題なども考えると、もしこれが実現できるとしたらNHKだけだと私は思う。デジタル化によってチャンネル数の制限も緩くなったことだし、NHKには本当の意味で社会の役に立つものを追い求めて欲しいと思う。それが、国民の税金に支えられているNHKの義務ではないだろうか。
他には、マスコミ間での相互的な批判がなぜあまり行われないのか、そういった”マスコミの権力”を監視する取り組みは行わないのか、といった質問についても興味深い話を聞けたりした。
これに関しては、昔から同じような話がマスコミの中で出ているにも拘らず、いまだに実現してはいない、ということのようだ。その一因として、マスコミの相互批判が行われた際に必ずしも少数派が間違っているとは限らない、といったものが挙がった。
これは本当にその通りだと思うし、マスコミ間での積極的な批判を行わないことによって、物事の多面性が損なわれないという部分もあるだろう。しかし、現代のネット(国民)とマスコミの対立は、実際にはこの構図になってしまっているように思える。最近ではフジテレビによるネットの批判(ここで具体的にどれとは言わない)があったが、他のマスコミがそれに対してアプローチを起こさなければマスコミという権力と、ネットという名の一部の国民の対立となってしまうだろう。この構図は先ほどのマスコミ間での相互的な批判を行った場合に危惧されるような状況とひどく似通ってはいないだろうか。マスコミが相互に監視を行わなければ、マスコミの持つ力は簡単に物事の多面性を喪失させてしまう危険をはらんでいると私は考える。
と、ここまで書いてもまだネタは尽きないのだが、あまり推古せずに文章を綴ったこともあってやや読みづらい気がしてきたので、このあたりでやめておくことにする。
Twitterも日々のちょっとした気づきやどうでもよいことをつぶやくのには良いのだが、やはりこういった長文を書きとめる場としてのブログは重要だなと、こういう機会がある度に思える。